「元寇」世界最強の国 元の襲来を防いだ鎌倉武士たち!-1

「元寇」世界最強の国 元の襲来を防いだ鎌倉武士たち!

鎌倉時代、時の鎌倉幕府は海の向こうから二度にわたる侵攻を受けました。
1274年の文永の役と1281年の弘安の役。日本史上最大級の危機といわれる元寇(蒙古襲来)です。当時の元(モンゴル帝国)は、その領土が地球の陸地の約17%、世界人口比率では約26%に達していたと伝わる強大国。やがて世界を制覇するだろうと恐れられていました。
そのような大国の侵攻を、日本軍は二度とも本土に入れることなく博多湾で撃退し、後の世に神風神話をもたらしました(諸説あり)。
なぜ元は日本を攻めてきたのか。本当に神風は吹いたのか?その伝承を紐解くと見えてくるのは、神風ならぬ鎌倉武士・九州御家人たちのしたたかなまでの強さでした! 
天皇、将軍、御家人、多くの民が一致団結して防いだ元の侵攻。今に伝わる「蒙古襲来合戦絵巻」や各地の遺構を訪ねながら、博多湾で果敢に戦った鎌倉武士たちの活躍を振り返ってみましょう。

画像:「蒙古襲来合戦絵巻」 (国立国会図書館)を加工して作成


世界史の中の元寇。なぜ元は日本を攻めてきたのか

なぜ元は日本を攻めてきたのか。当時の元がどんな国だったのか。日本に侵攻してきたときの5代目の皇帝、フビライ・ハーンとはどんな人だったのか、まずは当時の世界史の中の元を覗いてみましょう。

元は、初代の皇帝チンギス・ハーン(1162~1227年)に始まって、13世紀に蒙古民族を統一し、ユーラシア大陸を征服してさらにヨーロッパまで遠征した大帝国。ハーンの孫であるフビライ(1215~1294年)は、都を大都(北京)と定め、高麗を従属させ、その高麗を介して日本に度々、朝貢を要求していました。ちなみに文永5年(1268年)に高麗の使者が太宰府にもたらした国書の文面は友好や親睦を願う一方、それを拒否した場合は武力を行使することを示唆しており、友好的・高圧的の両面の評価があります。


日本史の中の元寇。元を蛮族として扱った朝廷

当時の日本は鎌倉幕府8代目執権・北条時宗の時代で、時宗はまだ若く、叔父の北条政村が補佐、後見していました。南宋から来日した僧侶を通じて元に関する情報をそれなりに得ていた幕府でしたが、日本国の外交は朝廷が権限を持っていました。
元を蛮族と見なす朝廷が「御所に入れて国書の授受を行う必要はない。太宰府が対応して帰国させればいい」と判断し、その上で幕府に危機感を持って防衛体制を整えていくよう求めました。幕府もまた日本の国際貿易港博多を含む筑前・肥前国に所領を持つ東国御家人の九州下向を命じたり、守護を入れ替えたりなど、元の侵攻を想定して備えを進めていきます。亀山上皇は神社仏閣での祈願を行い、幕府は御家人の戦力調査をするなど国を挙げての国防意識が高まっていきました。


大宰府政庁:7世紀後半から12世紀後半、アジア大陸の窓口として、西の都の行政機関として九州を統括した政庁の遺構。
水城跡:福岡県太宰府市・大野城市・春日市にまたがる海からの攻撃に備えて築かれた古代の城。土塁、城門跡、外堀跡の遺構がある。


元からの国書を無視し続けたのはなぜ? 

元の皇帝・フビライは、実際に侵攻する1274年(文永11年の「文永の役」)までに、6回にわたって日本に国書(詔書)を出しています。しかし日本側は返書はしないと決めていました。元の思惑を見抜いていたのです。日本の硫黄を狙っている。モンゴルでは末子に相続権があるが、これを破って王位につき、遊牧を捨てて中国風の生活を好んだフビライへの批判をかわすために、民の目を外に向けさせたい。高麗の国力を弱めるために高麗の軍船を使って侵攻させるなどなど。断りの返書をすれば、それを口実に攻めてくるはず。無視が最善の方法と考えたのでした。

・1回目 1266年、最初の詔書。使者は荒海を理由に日本に渡らず。詔書も届かなかった。
・2回目 1268年1月、使者が太宰府まで届けるが、返書は得られず帰国。
・3回目 1269年2月、使者は対馬に到着するが、日本本土には渡れず帰国。
・4回目 1269年9月、使者は対馬に詔書を届けるが、そのまま帰国。
・5回目 1271年9月、使者は筑前国今津に到着。入京を望むが許可されず帰国。
・6回目 1272年3月、太宰府に留め置かれた使者はその後、帰国。

この2年後に1度目の襲来(文永の役)となったのです。


文永11年(1274年)10月20日、元・高麗連合軍が博多に上陸

文永11年(1274年)10月5日の午後、2万5千の元軍(蒙古軍・高麗軍)を乗せた900艘の元軍が対馬の西方海上に姿を表しました。元軍は対馬を蹂躙(じゅうりん)し、10月14日には壱岐を襲います。ここでも暴虐の限りを尽くした元軍は、10月19日に博多湾に侵入を始めました。対馬と壱岐の惨状を知った日本軍は、筥崎宮や赤坂山に陣取って防備を固めます。総大将の少弐景資(しょうにかげすけ)はじめ、薩摩、日向、豊後、肥後など九州各地からの援軍もそれぞれの陣地で守りにつきました。ちなみに赤坂山は太宰府の西の守護所。国防の拠点で後に福岡城が築かれた重要な地でした。

蒙古軍は今津方面に上陸し、長浜、蛭浜を経て百道浜に侵入、翌日には高麗軍も百道浜に上陸。博多の西側にある祖原山に本陣を置き、赤坂方面で日本軍との激戦が開始されました。やがて元軍の主力2万が壱岐の浜に上陸。戦いは次第に激しくなり、櫛田神社や筥崎宮に火が放たれ、博多の町は炎に包まれました。日本軍は苦戦を強いられながらも粘り強く応戦し、少弐景資が放った矢によって元の副将、劉 復亨(りゅう ふくこう)が負傷(これが元軍退却の一因となったともいわれます)。
日没を迎え、日本軍は水城方面に後退しました。翌21日、苦戦を覚悟しつつ出陣してきた日本軍は予想もしなかった光景を目の当たりにします。博多湾に元の軍船が一艘も見えなかったのです。思いもしない元軍の退却でした。
さらに、退却中の元軍が博多湾を出た直後に突如、暴風雨が起こり、元軍の軍船の半分が沈没する事態になりました。多くの将兵が溺死したといわれます。

祖原公園:元寇の記念碑がある祖原山と呼ばれる小高丘にある公園。桜の名所でもある。
元寇古戦場跡:文永の役の激戦地の一つが祖原山。360度の眺望が楽しめる山頂の近くに記念碑が建っている。
筥崎宮:筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮と共に日本三大八幡宮の一つ。元寇の困難に打ち勝ったことから厄除け・勝運の神としても有名。楼門には亀山上皇ご宸筆の「敵国降伏」が掲げられている。
筥崎宮境内蒙古碇石:筥崎宮の境内に置かれた元軍の船の碇として使用された碇石。
銅造亀山上皇立像:福岡市出身の彫刻家、山崎朝雲が制作した亀山上皇の銅像。元寇ゆかりの地、福岡県庁前の東公園に立つ。


日本と元の戦い方の違いを、ズームイン!

日本軍も多くの被害を受け、苦戦を強いられた文永の役。戦いが長引けば大敗したかもしれません。苦戦の理由として、日本と元の戦い方の違いが挙げられます。

例えば、
●日本の武士の象徴的な戦い方である一騎駆けと、銅鑼(ドラ)や太鼓を合図に敵を集団で取り囲む元軍の集団戦法。
●射程が長い日本の長弓と射程は短いが、連射が利く元の短弓(しかも矢じりに毒が塗ってある)の違い。
●てつはうと呼ばれる炸裂弾で馬を驚かすなど元軍の奇襲作戦など。

圧倒的に元軍が強いイメージですが、これは陸上の戦いにおいてのこと。瀬戸際で押しとどめれば背後は海の元軍が不利です。実際には日本軍は前面に歩兵、その隙間から弓矢で狙い打つ、そして接近戦になると薙刀や打ち刀での集団戦で攻めました。こうした日本軍の戦い方を元軍側でも評価したと、後の元の記録にあるそうです。


実は日本の威力偵察だったといわれる文永の役

文永の役における元軍の撤退については近年、さまざまな観点から研究がなされ、副大将・劉 復亨(りゅう ふくこう)の負傷以外にも撤退の原因がいくつか挙げられています。中でも興味深いのは、『元史』の「日本伝」至元11年の条に記された「官軍不整」(官軍整わず)と「矢尽」(矢尽きる)の2つの文言。元軍と一口にいっても、モンゴルや高麗など様々な人種の混成軍で指揮者間に確執があり、一貫した指示が行き渡らなかったこと。長い航海のため、兵の士気が低かったこと。海を渡っての遠征や戦いに不慣れだったことを撤退の理由としています。

実際、元寇船は海岸から200mの地点に投錨し、そこから小舟で15~16人ずつ上陸。時間がかかり、3,000人程度しか上陸できなかったといわれます。また、元軍が上陸して日本軍を攻めるのは海を背にして正面からの一方向からだけ。沖合の帰還船との補給線が長いと武器や兵糧の補給もままならず、しかも対戦では日本軍が粘りを見せて激しい弓矢の応酬で、元軍は矢が尽きても船に戻ることができず苦戦したそうです。そもそも文永の役は、日本という国の威力偵察。博多の町まで突入に成功し、戦利品を獲得し、日本の武士の戦い方も分かったので長居は無用だったとも。フビライが戻って来た敗将を処罰しなかったのは、その表れでしょうか。

高麗史によれば、元軍の損害は900艘の船の半分が破損。沈没。13,500人が戦死、または溺死しました。戦いにおける約半分の死亡数は全滅に近いともいえる結果ですが、死傷した兵は高麗など属国の兵が圧倒的に多かったともいわれます。日本軍の死者も数百人に及び、この報告を受けて鎌倉幕府は次の襲来に備え、さらに強固な防衛体制を整えていきました。


「文永の役」の後に来た使者を斬った日本。それが「弘安の役」につながった

元からの使者を徹底無視した日本。その結果、侵攻してきた元。その文永の役の5カ月後に来日した使者を斬った日本。これこそが元へのメッセージでした。文永の役の恨みは忘れていない。二度と日本の国土を蹂躙させないと。その後に来日した使者も次々と斬り捨てていきました。

・建治1年(1275)4月、元の使者、杜世忠らが長門国室津に到着。鎌倉に送られ斬首。
・弘安2年(1279)6月、再度元から使節一行が博多に到着、博多で斬首。
・同年8月、杜世忠らを日本に送った水夫が高麗に帰り、斬首の件を報告。

杜世忠らの処刑の情報が元に伝わったのが、さらに1年後。使者は6年も前に死んでいた…それが日本の返事と知り、激怒したフビライが再度の日本出兵へ。1281年の「弘安の役」です。
ちなみに、この間の使者はすべて高麗の人間でした。二度の日本侵攻に連合軍として参戦させられた高麗は、造船、兵糧、兵を大量に供出させられ疲弊していきました。


元寇史料館:2度に渡って襲来した元寇に関する両国の武具や元寇絵などを展示している。
 


次の襲来に備えて強固な防塁工事を。そして迎え撃つ軍船44,000艘もの元の大軍

日本に大きな被害もたらした文永の役。次の襲来に備えて、鎌倉幕府は九州の御家人に博多湾沿岸の防衛強化を目的とした石築地と呼ばれる石塁の構築を命じました。朝廷と幕府、そして九州御家人と民が一体となって、工事は建治2年(1276年)3月から翌年の初めまで突貫で行われました。沿岸から太宰府、大野城市、春日市にまたがって延びる総延長20kmの石塁は高さ約2mと低めながら強固で、元軍の上陸を阻むに十分な威力を発揮しました。

弘安4年(1281年)5月に高麗の合浦を出発した元の東路軍(蒙古軍・高麗軍)は、前回と同じように対馬と壱岐を蹂躙した後に博多湾に侵攻してきました。そこには万全の構えで待ち受ける日本軍の姿がありました。頑強にして長大な石塁、色とりどりにはためく無数の旗さしもの。国土を守ろうとする熱い意志が長城のように連なる光景は、長い航海を経てやって来た元軍の士気を下げるには十分でした。この石塁は復元したものも含めて今も博多湾の各地に残っています。


元寇防塁(西新・生の松原・今津):白砂と松原が広がる博多湾の長垂海岸から小戸海岸にかけての約2.5km間に築かれた「生の松原地区元寇防塁」。防塁の一部は築造時の高さに復元され、見学可。
今津元寇防塁:西の柑子岳山頂から東の毘沙門山山麓までの海岸砂丘に約3kmにわたって築かれた今津地区の元寇防塁。松原の中に200mほど復元されていて見学可。
博多小学校石塁遺構展示室:博多小学校で平成10年に発掘された石塁を学校校舎の地下に展示。元寇防塁ではないかと推測されている。

Column

「元寇・文永の役750年記念事業」開催!-1

「元寇・文永の役750年記念事業」開催!

2024年は1度目の襲来「文永の役」からちょうど750年。節目の年に、福岡県内ではさまざまなイベントが行われます。福岡県立図書館では、3階のふくおか資料室でミニ展示「元寇750年」を先行実施中。各市町村の図書館でも、同様のテーマで企画展示を開催中です。

元寇・文永の役750年記念事業

2度目の襲来。1281年5月~閏7月7日「弘安の役」 

弘安4年(1281年)5月、元軍は前回の3倍以上の15万人近い兵を乗せた世界最大級の船団で再度、攻め寄せて来ました。船の数は先遣隊の東路軍900艘、主力隊の江南軍3,500艘。第二次蒙古襲来、2カ月余にまたがる「弘安の役」の始まりです。元軍は長期戦に備えて何と錨(いかり)の代わりにレンガや石、上陸してから使うであろう石臼、鍬や鋤まで生活用品を満載していたといわれます。勝利を確信した上で、兵士を永住させるつもりでいたようです。だが、防塁が期待以上の効を奏し、本土上陸がかなわない元軍は6月6日、防塁のない志賀島周辺を停泊地としました。


志賀島を護ることが、日本を護る。しぶとく戦った日本軍

6月8~9日、日本軍は海路と海の中道づたいの陸路二手に分かれて東路軍を攻撃。(この時、竹崎季長が海路からの攻撃に参加し、活躍)。元の船田は海の上で長期の籠城状態となり、2年前に元に滅ぼされ難民となった南宋の兵、属国・高麗の兵など国や人種も様々の寄せ集め軍団は、行動の自由が利かない船の上で、だんだんと戦意を喪失していきます。一方、敵に一歩も本土の土を踏ませまいとする日本軍の士気は高まる一方で、元の軍船に死体や糞を投げ入れて疫病を広めたり、火を投げ入れたりとゲリラ戦も活発に行われたようです。
その後、東路軍は志賀島を放棄して壱岐へ退却しましたが、合流期日になっても江南軍は現れません。この間に疫病が蔓延し多くの死者が出たといわれます。


守備側だった日本軍が攻勢に。博多湾を撤退する元軍を嵐が追う

6月29日、7月2日、壱岐で日本軍が東路軍と合戦。苦戦した東路軍は江南軍が平戸島に到着した知らせを受けて、合流するために壱岐を離れました。その後、鷹島で合流。7月27日、鷹島沖での両軍の海戦が始まります。守備側だったはずの日本軍が攻勢に転じていく様子を「蒙古襲来合戦絵巻」が色鮮やかに活写しています。
7月30日夜半、暴風雨が起こりました。後の世に大いに語られた神風ですが、特に江南軍の被害は大きく、出航から3カ月も異国の海上で過ごしていたため厭世気分が高まっていた元軍は、勝運尽きたとばかりに撤退していきました。逃げ遅れた元軍の兵士は3万人とも10万人以上とも。蒙古、漢人は殺され、高麗、唐人(南宋人)は捕虜にされ、職能で選別して従事させたといわれます。弘安の役から11年後に届いた高麗国王からの国書には、高麗の捕虜が日本で収護・処養されていたことを感謝する記述があるそうです。(この文書の写しが金沢文庫に収蔵)


志賀島ってどんな島?防塁が無くても龍神が勝利を導いた?

志賀島は博多湾の北部に位置し、海の中道と陸続き。古代日本の大陸や朝鮮半島への海上交易の出発点としても、鎌倉時代の元寇においても重要な位置にありました。弘安の役の際には東路軍が上陸をし、沖合に軍船を停泊させたが日本軍の奮戦で追い落としています。島内にある志賀海神社は全国の綿津見三神を祭り、海上交通の安全祈願・厄除けで有名です。筑前国風土記逸聞に、神功皇后の三韓征伐の際に皇后が戦勝祈願のために立ち寄ったという記述があります。境内には龍穴があり、龍が海と陸と空を行き来して天地の水を司るとの言い伝えがあります。神話と歴史に彩られた島ですが、近年はキャンプや海水浴を楽しめるレジャーランドとしても人気があります。

志賀海神社:海の神「綿津見三神」を祀る、海人族・阿曇氏発祥の地。
志賀島ビジターセンター:志賀島および福岡、佐賀、長崎の3県にまたがる玄海国定公園の魅力を発信。
志賀島 潮見展望台:志賀島で最も高い場所に位置する潮見展望台からは、博多湾の景色が360度楽しめる。


元寇のその後、日本国を護った鎌倉幕府はやがて…。3度目の日本遠征をもくろんでいた元も滅亡へ

2度にわたる元寇を撃退した後、幕府を悩ましたのが御家人たちへの恩賞。侵攻を防いだといっても新たな所領を獲得したわけではないので、命を懸けて働いた者たちへ分け与えるものがありません。これに不満を持つ御家人を中心に、幕府の内外に不穏な動きが活発になってきました。それは北条氏を弱体化させ、やがて討幕運動へと発展していきました。1324年9月(12月に正中に改元)、後醍醐天皇による討幕計画(正中の変)が発覚。この時に幕府からの処罰がなかったことで幕府の弱体が顕在化。後醍醐天皇は7年後に挙兵、失敗して隠岐の島に流されるも楠木正成や護良親皇の挙兵後に島を脱出。北条氏追討を諸国に命じました。足利高氏(後に尊氏)、新田義貞などの挙兵も相次ぎ、1333年5月、鎌倉幕府は滅亡。弘安の役から52年後のことでした。

次々に勃発する内乱の制圧に忙しいフビライが死んだのは1294年。3度目の遠征が実現することはありませんでした。元王朝も衰退の一途を辿り、1368年、大都を捨てモンゴルに去り、北元の時代へ。大都は新たに明王朝の都となりました。栄枯盛衰の理…。


犠牲になった対馬と壱岐。語り伝えられる「むくりこくり」の残虐行為

1274年の文永の役、1281年の弘安の役において、高麗から至近距離にある対馬と壱岐は元軍の猛攻撃を受けて壊滅的な被害を受けました。その際に元軍が行った両島人への蛮行は、後の世まで語り継がれるほどの残虐さだったといいます。のちの世に「むくりこくりが来るぞ」という言葉を遺しました。むくりは蒙古兵、こくりは高麗兵のことで元軍の暴虐を意味します。子供が悪戯などをすると「むくりこくりが来るぞ」と言い聞かせたそうですが、無慈悲で残酷な状況を表す「ムゴイ」という言葉の語源も蒙古兵にあるといわれ、何世代にも渡って言い継がれてきました。今も両島の各地に、元寇の犠牲者を弔う千人塚があり、慰霊する人々の姿が絶えません。


ズームアップヒーロー 竹崎季長(肥後国・御家人)

「蒙古襲来合戦絵巻」の中に登場する竹崎季長(たけざき すえなが)は、もちろん実在の人物で肥後国竹崎郷の御家人。文永の役で活躍した季長は恩賞の沙汰が無いことに納得がいかず、馬を旅費に替えて鎌倉まで赴き、先駆けの功を訴えて肥後国海東郷の地頭に就任しました。弘安の役でも活躍して多大な恩賞を得ています。その恩賞を使って「蒙古襲来合戦絵巻」を描かせ、武功を示すと同時に甲佐大明神に奉納して戦死者の供養をしたと伝えられています。絵巻は絵と詞(文章)で合戦の顛末を時系列で詳細に描き、元寇の資料としても一級といわれています。


蒙古襲来合戦絵詞が伝える鎌倉武士・御家人の強さ!

この絵には「文永の役」の際、季長が太宰府出発後に西側の主戦場、鳥飼潟において臨んだ10月20日の午前中の戦闘の様子が活写されています。2001年に鷹島沖で発見された砲弾などが絵巻に描かれた「てつはう」と一致するなど資料としても一級で、国宝。右に描かれた馬上の人物が季長で、馬は血を流しています。中央にてつはうが炸裂。向きが逆なのは、まるで日本が打ち込んでいるようでご愛敬。左には屈強な3人の蒙古兵。さらに左奥にいる2人の兵士の背には矢が刺さっています。こちらにも血が流れていて合戦の臨場感がヴィヴィッドに伝わってきます。
大国・元は(台風があったにせよ)なぜ日本制圧に失敗したのか、その答えがこの絵にあるような気がします。兵の戦意が違った。自国の存亡を賭けて必死の日本軍と、著しく指揮統制に欠けた(特に)江南軍。フビライの指令は東路軍・江南軍の同時出発でした。ところが江南軍の出発は大きく遅れ、壱岐を集合地点と決めていたため、東路軍は2カ月以上も待ち続け、その間、海上をただ彷徨うことになります。結果として台風シーズンに重なり、江南軍の将が兵を置いて真っ先に逃げ帰ったなどの史実が、台風が来なくても元が日本を制圧できなかったことを証明しているともいえます。

トピックス
・2022年10月、長崎県松浦市鷹島沖から元寇船の木製の錨が引き上げられた。
・これを展示する長崎県の松浦市立埋蔵文化財センターに来館者が増えている。
・2024年は文永の役750周年。元寇ゆかりの自治体とのネットワークづくりが進んでいる。

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イチオシ施設「元寇史料館」-1

イチオシ施設「元寇史料館」

元寇予備知識として、この記事を読まれた方にお勧めしたい施設、「元寇史料館」。記事中でもご紹介しましたが、福岡へ訪れたらぜひ訪れていただきたい施設です。
元と日本両国の甲冑や元寇に関する絵巻物などを展示しているほか、モンゴル帝国の興隆から元寇に至るまでの流れなどが分かりやすく解説されており、元寇への理解と興味がますます深まることでしょう。ぜひ訪ねてみてくださいね!

元寇史料館

※当ページは一定の調査を元に制作をしておりますが、歴史認識には多様な考え方があるため、異なる認識をお持ちの場合にはご了承ください。

「だざいふ」の表記について
歴史上の役所は「大宰府」、行政上の名などは「太宰府」と書くことが慣用化されています。


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