福岡ゆかりの人物の足跡を訪ねる
江戸時代から令和まで、経済、文学、芸術などさまざまな分野で功績を遺した福岡県出身やゆかりのある先人たち。
その足跡を訪ねてみませんか。先人たちにまつわる関連施設や周辺の立ち寄りスポット情報をお届けします。
出光佐三 [1885~1981]「敬神愛人(けいしんあいじん)」の心深く
出光興産の創始者で、小説「海賊とよばれた男」のモデルとなった出光佐三(いでみつさぞう)は、故郷・宗像を愛し、地域振興に取り組んだ人物でもあります。唐津街道の宿場町・赤間に生まれ、高校卒業後、神戸高等商業学校(現神戸大学)に進学。25歳で出光商会を設立しました。1937年に宗像大社を参拝した際、大社の荒廃した姿に心を痛め、復興を決意。数億円の私財を投じ、神社史編纂や沖ノ島の学術調査を実施。古代祭祀の遺跡や奉納品約8万点を発見するなど、その考古学的価値を明らかにし、後の「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の世界遺産登録の礎を築いたのです。
故郷・宗像の教育に対する思いも深く、現在の福岡教育大学の統合移転の際に誘致や施設整備を支援したほか、財団法人を設立して奨学事業を行うなど、人材育成に尽くしました。
①2017年に登録された世界遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」。今も信仰を集める沖ノ島は島全体が御神体とされ一般の上陸は禁止されています。
②宗像三宮の総社・宗像大社辺津宮(へつぐう)の神宝館には金製指輪をはじめ、佐三の支援で発掘調査された沖ノ島の出土品(すべて国宝)が収蔵・展示されています。
③手洗石に刻まれた「洗心」の文字は佐三による揮毫(きごう)です。
出光佐三展示室・生家
赤間宿通りには佐三が生まれ育った白壁の生家が残っています(通常非公開。毎年2月の赤間宿まつり開催時などで特別開放あり)。
地元の有志が開設した出光佐三展示室では、佐三に関する資料を見ることができます。
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西島伊三雄 [1923~2001] 博多を描いた絵師
博多の文化を描いた福岡を代表するグラフィックデザイナー、童画家の西島伊三雄(にしじまいさお)。戦後、「自分の描いたもので世の中を明るく照らしたい」との思いから、観光ポスターをはじめ、ロゴマークやパッケージデザイン、イラストなど数多くの作品を制作。その活動はグラフィックデザインにとどまらず、「博多町家」ふるさと館初代館長、大学講師、美術団体審査員、テレビ番組の司会者など、文化全般に渡りました。
郷土を愛し、博多どんたくや博多祇園山笠など、祭りの広報普及にも尽力。祭り用のうちわや手ぬぐいのイラストもボランティアで描きました。
素朴でノスタルジックな童画や誰が見てもわかりやすいマークなど、数多くの西島作品が福博の町にちりばめられ、今もなお愛されています。
作家デビュー前に新聞社で広告の仕事に携わっていた松本清張とは、同業でデザイン仲間でした。
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ネーミングとパッケージデザインを担当したハウス食品のインスタントラーメン「うまかっちゃん」。長年愛され続け、2024年に発売45周年を迎えました。
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博多のお正月を描いた童画「あぶり出し」
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博多祇園山笠の舁き縄(かきなわ)がモチーフの博多座ロゴマーク
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福岡市地下鉄各駅のシンボルマーク(左上から時計回りに中洲川端、祇園、千代県庁口、天神)
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松本零士 [1938~2023] 壮大な宇宙に憧れ
「銀河鉄道999」や「宇宙戦艦ヤマト」など、宇宙をテーマにした作品を生み出した松本零士(まつもとれいじ)は久留米市に生まれ、小学校3年から高校卒業までを小倉で過ごしました。小学生の頃は朝日新聞西部本社前に住んでおり、当時、宣伝部に在籍していた松本清張と面識があったといいます。
小倉でさまざまな人と出会い、街の文化や風土に学んだ零士は、高校在学中に漫画家としてデビュー後、東京へ。代表作「銀河鉄道999」は、小倉から蒸気機関車で上京した日の想いを形にしたものです。今も小倉の街のあちこちで松本零士作品の愛すべきキャラクターの姿を見ることができます。小倉を訪れたら、ぜひ作品めぐりを楽しんでみませんか。
①「銀河鉄道999」や「宇宙海賊キャプテンハーロック」をデザインしたマンホールは小倉駅周辺に9種類設置されています。
②小倉駅新幹線口(北口)には、「北九州市漫画ミュージアム」の開館を記念して作られたメーテルと鉄郎のブロンズ像が設置されており、絶好の記念撮影スポット。新幹線の発車予告音も「銀河鉄道999」のテーマ曲が使用され、ご当地駅メロディーとして親しまれています。
③北九州モノレールでもラッピング車両が運行しており、松本零士の世界を感じながら移動を楽しむことも。
北九州市漫画ミュージアム
「見る・読む・描く」をテーマに漫画を楽しめるミュージアム。わたせせいぞうや北条司など、地元ゆかりの漫画家を中心に作品を紹介。常設展示エリアでは、初代名誉館長・松本零士の生い立ちや業績をインタビューやアニメ作品とともに展示しています。
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火野葦平 [1907~1960] 若松と河童を愛した
遠賀郡若松町(現北九州市若松区)に生まれた火野葦平(ひのあしへい)は、小倉中学(現小倉高校)時代に夏目漱石の作品に触れ、文学を志しました。早稲田大学中退後、一時は家業を継ぎましたが、1937年に日中戦争のため応召。翌年、「糞尿譚(ふんにょうたん)」が第6回芥川賞を受賞し、その後の「兵隊三部作」で国民的人気作家となりました。
戦後は若松と東京を行き来しながら、活動拠点の「河伯洞(かはくどう)」で多くの時間を過ごし、両親の半生記「花と龍」など北九州を舞台にした作品を執筆。河伯洞の周辺には、「花と龍」に描かれた安養寺や金毘羅神社など作品ゆかりのスポットが点在し、その足跡をたどることができます。
本名は玉井勝則。アフガニスタンで人道支援を行った中村哲は葦平の甥(妹・秀子の子)にあたります。
火野葦平資料館(若松市民会館内)
日記や従軍手帳、創作ノート、遺書などの複製資料(北九州市立文学館所蔵)、自ら命を絶った「河伯洞」2階の書斎の復元、生涯をたどる写真パネルや高倉健らの主演で映画化された「花と龍」のポスターなど数多く展示されています。
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<立ち寄りスポット>火野葦平旧居「河伯洞」
1940年から1960年までまで過ごした創作拠点です。河童の住む家を意味し、数多くの河童像が飾られています。
葦平は河童好きで知られ、河童が登場する作品も数多くあります。
團琢磨 [1858~1932] 近代化に尽力。百年の礎を築く
福岡藩に生まれた團琢磨(だんたくま)は、日本の近代工業化の原動力となった三池炭鉱の「育ての親」。1871年に岩倉使節団に同行し渡米、マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学びました。
帰国後、三池炭鉱社の事務長に就任すると、イギリス製のポンプや巻揚機など、世界の新しい技術を次々に導入。大型船が接岸できるように三池港を築港し、石炭を効率よく運ぶ鉄道を建設するなど、三池炭鉱の発展と近代化に尽力しました。
三池港築港に際し、「築港をやれば、そこにまた産業を興すことができる。築港をしておけば、いくらか百年の基礎になる」と語った言葉通り、三池港は100年以上たった今も国際港として活躍しています。
①1908年の三池港開港に合わせて建てられた三井港倶楽部には、玄関近くに團琢磨の書による「大浦坑遺址」の碑があります。
②石炭の輸出港となった三池港は夕焼けが美しいスポットとして知られており、11月と1月の約10日間だけ現れる「光の航路」は一見の価値あり。この時期に限り、普段は立ち入れない撮影ポイントも開放され、フォトジェニックな景色を楽しめます。
③三池炭鉱の作業員が履いて実地実験を行ったゴム底の地下足袋は、ブリヂストン創業者・石橋正二郎が考案したものです。
大牟田市石炭産業科学館
日本最大規模の炭鉱の町だった大牟田の歴史や「炭鉱技術の歩み」、資源としての石炭の魅力などを紹介する施設。團琢磨の展示コーナー、地下の採掘現場を体感できる「ダイナミックトンネル(模擬坑道)」など、石炭について楽しみながら学べます。
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<立ち寄りスポット>宮原坑
現存する日本最古の鋼鉄製堅坑櫓(たてこうやぐら)。宮原坑をはじめ三池炭鉱・三池港関連の資産は、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として2015年に世界文化遺産に登録されました。
近代化産業遺産(世界遺産「明治日本の産業革命遺産」)井上伝 [1788~1869] 久留米絣(かすり)の創始者
米穀商の娘・井上伝(いのうえでん)が久留米絣を発案したのは13歳の頃。藍の着物に白い模様を見つけ解きほぐしたところ、その部分がまだらになっているのを発見。試行錯誤を繰り返し、紺地に白い斑点模様の織物「加寿利(かすり)」を完成させました。当初は斑紋のみでしたが、「からくり儀右衛門」こと田中久重(後の東芝の創始者)の協力を得て、絵模様を織り出すことに成功しました。
伝はその技術を広く伝授し、40歳の頃には弟子の数は約1,000人に。70歳の頃には農村の一般家庭にも技術を伝えるなど、普及に努めました。1864年には藩も専売品として生産を推奨し、久留米は日本三大絣産地のひとつとなったのです。
伝が考案した十八文様。若手作家たちの手によって、 1985年に復元されました。
久留米絣資料館(地場産くるめ内)
国の重要無形文化財・久留米絣の歴史や製造工程、井上伝愛用のはさみや眼鏡、戦前に織られた作品などを展示し、久留米絣の魅力を紹介しています。希望者は手織り実演の見学や、久留米地方の工芸品の製造工程のビデオ視聴も可。
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山本作兵衛 [1892~1984] 炭坑の記憶を伝える
92歳で亡くなるまで1,000点を超える炭坑記録画を残した山本作兵衛(やまもとさくべえ)は、7歳頃から父について入坑以来、1955年の位登(いとう)炭鉱閉山まで半世紀以上を炭坑労働者として筑豊で過ごしました。幼い頃から絵が好きでしたが、生活が苦しく、実際に描き始めたのは宿直警備員となった65歳の頃。自身の記憶をもとに、明治中期から昭和初期の炭坑労働や生活を次々と描きました。
「自分の描く絵は芸術でなく記録だ。だから少しの絵空事もあってはならぬ」と真実を描くことに徹した作兵衛。労働者の視点でとらえた緻密(ちみつ)で正確な炭坑の記録画は、「世界の生活者たちが共有すべき価値を持った人類の財産」と高く評価され、2011年に日本で初めてユネスコ「世界の記憶(世界記憶遺産)」に登録されました。
田川市石炭・歴史博物館
石炭を主なテーマにした博物館。「世界の記憶(世界記憶遺産)」に登録された「山本作兵衛コレクション」作品697点のうち、記録画585点、記録文書42点を所蔵し、一部を展示しています。屋外には炭鉱住宅の復元施設などもあります。
狭い坑道を腹ばいになって掘り進む先山(採掘を行う者)と後山(運搬を行う者)を描いた「寝掘り」。添えられた文には「炭丈(スミタケ)45cm位までは坐って掘るが、それ以下は寝て掘る」と書かれています。
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麻生太吉 [1857~1933] 筑豊と九州の発展に貢献
喜麻郡立岩村(現飯塚市)の大庄屋の長男として生まれた麻生太吉(あそうたきち)は、1872年に父とともに、目尾(しゃかのお)御用炭山で石炭採掘事業に着手。鯰田(なまずた)や忠隈(ただくま)などの名山を開発し、麻生商店を設立しました(1918年に株式会社化)。
太吉は炭鉱業だけに留まらず、銀行、病院、電力、鉄道など幅広い分野で事業を展開。1898年には衆議院議員、1911年には貴族院(現参議院)議員に当選します。若松港築港に尽力し、今日の若松の大港湾の基礎を築くなど政治家としても活躍。九州の発展、近代化に貢献しました。
筑豊有数の炭鉱主となった太吉は、貝島太助、安川敬一郎とともに「筑豊御三家」と呼ばれています。
①太吉が手掛けた鯰田炭鉱。1880年開坑。後に三菱に売却されました。
②長男・太右衛門の住宅として建てられた大浦荘は、紅葉の時期のみ一般公開されています。
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中村哲 [1946~2019] 人道支援に取り組んだ35年
1984年にパキスタンのペシャワールに医師として赴任し、パキスタン、アフガニスタンの両国で医療活動に従事した中村哲(なかむらてつ)。2000年、アフガニスタンを襲った干ばつを機に、水源確保事業を始め、1,600本以上の井戸を掘削しました。2003年からは「100の診療所よりも1本の用水路を!」と、東部農村復興のため用水路建設に着手。用水路に水を取り入れる堰のモデルにしたのは、故郷・福岡の山田堰(朝倉市)でした。
手がけた10カ所以上の取水設備によって、約23,800haが緑の大地としてよみがえり、65万人以上の命をつなぎました。2019年、アフガニスタンで銃撃され、73歳で逝去。その遺志はNGO「ペシャワール会」と現地の人々に受け継がれています。
山田堰
江戸時代、筑後川右岸の耕地を水田化するために設けられた井堰。2021年、山田堰展望広場に完成した中村哲記念碑2基には、中村哲の言葉や肖像が刻まれています。
ダニエル・建・イノウエ [1924~2012] 日米友好の懸け橋
祖父と父が横山村(現八女市上陽町)の出身で、ハワイ生まれの日系2世。ハワイ大学在学中に勃発した太平洋戦争では、米国への忠誠心を示すため陸軍に志願し、日系人部隊に配属。欧州戦線で右腕を失いながらも勇敢に戦い、英雄と称えられました。
戦後は政界に進出し、1959年に日系人初の米連邦下院議員に当選。1962年から上院議員を連続9期務め、日系人の地位向上と日米親善に尽力しました。ジョージ・アリヨシ、エリソン・オニヅカとともに福岡県ゆかりの「ハワイ3偉人」と呼ばれ、2017年にはホノルル国際空港が「ダニエル・K・イノウエ」国際空港に改称されました。
ダニエル イノウエ ミュージアム
ダニエル・イノウエの功績を紹介する施設。館内には地域食材とハワイアンフードを融合したメニューを提供するカフェや地域の特産品を販売するマートなどがあります。
その他の「ふくおか」ゆかりの人物・関連施設
人物名 | 略歴・功績 | 関連施設 |
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野村望東尼(1806~1867) |
幕末の女流歌人・勤王家。平尾山荘に隠棲し諸藩の志士を援助。佐幕派に捕らえられ姫島(糸島市)に流刑となりますが、翌年、高杉晋作に救出されました。 | 平尾山荘 |
雲龍久吉(1823~1890) (うんりゅうひさきち) |
幕末に活躍した第10代横綱。その圧倒的な力と技で相撲界に名を刻みました。土俵入りの「雲龍型」を考案したことで知られ、現在の力士たちにも受け継がれています。 | 雲龍の郷(雲龍の館) |
伊藤伝右衛門(1861~1947) (いとうでんえもん) |
明治から昭和時代にかけて、福岡県筑豊で活躍した実業家・炭鉱主。飯塚市出身で、炭鉱で巨万の富を築き大成功を収めたことから「炭鉱王」と称されました。 | 旧伊藤伝右衛門邸 |
向野堅一(1868~1931) (こうのけんいち) |
日清戦争で陸軍通訳官として活動後、実業家の道へ。北京・奉天を舞台に日中合資の銀行や株式会社を設立し、満州経済界を指導しました。 | 向野堅一記念館(公式サイト) |
青木繁(1882~1911) (あおきしげる) |
久留米市出身で近代日本美術史における最も著名な洋画家の一人。代表作は重要文化財に指定された「海の幸」などがあります。 | 青木繁旧居 |
北原白秋(1885~1942) (きたはらはくしゅう) |
明治から昭和にかけて活躍した詩人、歌人、童謡作家。柳川で生まれ育ち、今もなお多くの人々に愛される数々の名作を世に送り出しました。 | 北原白秋生家・記念館 |
河村光陽(1897~1946) (かわむらこうよう) |
田川郡上野村(現福智町)生まれ。日本の童謡史に一時代を築いた作曲家です。「かもめの水兵さん」や「うれしいひなまつり」など、1,000曲以上の作品を生み出しました。 | 協奏の庭 |
林芙美子(1903~1951) (はやしふみこ) |
小説家。自身の体験を元に、困難に屈せず強く生きる女性主人公を描いた「放浪記」はベストセラーになりました。常に女流作家としての第一線で活躍し続けました。 | 林芙美子記念室 |
古賀政男(1904~1978) (こがまさお) |
昭和歌謡界を代表する作曲家。作品は「古賀メロディー」として親しまれ、名曲「影を慕いて」など、生涯制作した曲は4,000曲~5,000曲といわれています。 | 古賀政男記念館・生家 |
松本清張(1909~1992) (まつもとせいちょう) |
北九州市小倉生まれで、戦後日本を代表する作家。社会派推理小説ブームを巻き起こし、多くの推理小説や歴史小説を執筆しました。代表作の「点と線」「黒革の手帖」などは、たびたび映像化もされています。 | 松本清張記念館 |
藤田哲也(1920~1998) (ふじたてつや) |
「ミスター・トルネード」と称される気象学者。北九州市出身。下降気流と竜巻のスペシャリストとして、災害や航空機事故の防止に尽力しました。 | 九州工業大学附属図書館(公式サイト) |
高倉健(1931~2014) (たかくらけん) |
中間市出身。日本を代表する映画スターとして、「幸福の黄色いハンカチ」「鉄道員」など数多くの作品に出演。その実力と存在感は、今もなお高く評価されています。 | いぶき館 |
季刊情報誌「クロスロードふくおか」は、巻頭特集をはじめ、イベント情報や季節の花情報など、福岡県の魅力を幅広く紹介しています。ぜひお気軽に手に取ってご覧ください。
※掲載されている情報は2024年11月時点のものです。お出かけ前には必ずWebサイトや電話で最新情報をご確認ください。金額はすべて税込みです。