【日本三大合戦】筑後川の戦い<大保原(大原)の合戦>
約660年前の南北朝時代。筑後平野を舞台に、天下分け目の関ヶ原、武田信玄と上杉謙信がしのぎを削った川中島と並ぶ一大合戦が繰り広げられました。この時代、九州の地方豪族は武家政権の北朝方と、天皇親政を目指す南朝方に二分され、総勢10万の軍勢がこの「筑後川の戦い」で相まみえました。
この戦いは地方によっていくつかの呼び方があり、「大保原(おおほばる)の戦い」や「大原合戦」ともよばれています。
1359(天平14・延文4)年8月、南朝方の後醍醐天皇派、懐良(かねなが・かねよし)親王・菊池武光らの征西府軍40,000人と北朝方の足利尊氏派、少弐頼尚(しょうによりひさ)・大友氏時ら60,000人が九州の覇権をめぐって、筑後川沿岸から小郡市大保原にかけて戦い、両軍の死傷者は25,000人超とも言われています。その戦いの足跡が色濃く残る地を今回ご紹介していきます。
写真:大原合戦図屏風(小郡市教育委員会提供)
南北朝時代
日本に二つの朝廷ができ、二人の天皇とその皇統が並び立った南北朝時代。
1336(建武3)年から、室町幕府3代将軍足利義満によって南北朝合一がなされた1392(明徳3)年までの約56年間を指します。室町幕府の初代将軍、足利尊氏を後ろ盾にする北朝方と、奈良・吉野に逃れた後醍醐天皇の流れをくむ南朝方が60年近く国内各地で覇権を争うこととなりました。
全国的には北朝が優勢でしたが、九州では後醍醐天皇に征西将軍に任じられ、幼少期に遣わされた懐良親王が肥後の有力武士、菊池武光とともに各地の武将をまとめ、少弐頼尚率いる北朝勢に対抗。そして1359年8月6日、筑後川を挟んで戦いの火ぶたが切られました。南朝方の懐良親王は多くの犠牲を払いながら北朝方を破り、その勢いのまま、政治の中心であった大宰府を手に入れ、九州平定を果たしました。
Column
菊池武光公騎馬像<菊池市ふるさと創生市民広場>
菊池武光公騎馬像
勇壮な姿を今に伝える熊本県菊池市のシンボル。
菊池市のシンボル的存在として市民広場に建つこの像は1992(平成4)年に完成。臨場感あふれる馬上の武光公の軍配は、大宰府に向けられています。大宰府は古くから九州の首府であり、これを獲ることこそが「九州制覇」を意味していました。
懐良親王と菊池武光
後醍醐天皇の皇子である懐良親王。わずか7、8歳で南朝方の勢力挽回のため征西将軍に任じられ九州に派遣されました。わずか12名の従者とともに九州の地を目指すも北朝方に邪魔をされ、やっと鹿児島に上陸したのは都を離れてから4年後のことでした。その6年後の1348(貞和4・正平2)年に九州南朝方の支柱である菊池武光のもと(熊本県菊池市)に到着します。
当時武光は菊池家15代当主として、百戦錬磨の勇将と恐れられ一族の最盛期を築いていました。この二人が出会い「南朝再興」に向け九州各地を転戦していくこととなります。
大宰府に対する最前線基地・久留米市
後醍醐天皇が派遣した征西将軍宮懐良親王とそれを支える菊池一族が十数年もの歳月をかけて九州最大の武力を持つ少弐氏を退け、大宰府を制圧。以後11 年間、南朝は九州を支配しました。久留米は大宰府に対する最前線基地であり、多数の遺跡・伝説が残っています。
高良山と筑後川【久留米市】
筑紫平野と大宰府を一望できる場所にある高良山。懐良親王と菊池武光はここを拠点として大宰府の少弐氏と戦い、遂には九州を制覇しました。眼下には九州最大の河川「筑後川」が流れます。
高良山の山頂には、懐良親王が滞陣したと伝わる毘沙門岳城跡があり、隣接する高良大社奥の院には、この合戦に出陣する親王が、勝利を祈願し飲んだとされる湧き水があり、「勝ち水」と呼ばれています。
当時はもっと流れが急だったこの川をどう渡るか。両軍の将はそこに神経を注ぎました。先に動いたのは南朝方でした。菊池武光が機先を制し、当時川が湾曲し浅瀬があった久留米市善導寺町周辺を夜の闇に乗じ一気に渡り少弐頼尚の本陣を強襲したのです。
住所:福岡県久留米市御井町1 高良大社
宮ノ陣神社と将軍梅【久留米市】
宮ノ陣の地名は、この戦いの際、懐良親王・菊池武光らがこの地に陣を敷いたことに由来します。親王は念持仏である阿弥陀像をここに安置し、手向けに一株の紅梅を植え、百万遍の仏名を唱えたといいます。梅は将軍梅と呼ばれ、例年2月末頃には大輪の白梅が咲き誇り今でも多くの人たちを魅了しています。
住所:福岡県久留米市宮ノ陣5-12-1
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法龍山遍萬寺(ほうりゅうざんへんまんじ)
宮ノ陣神社に隣接している場所にあり、筑後川の戦い後、菊池武光の一族が懐良親王や戦没将士の冥福を祈るために草庵を建て、毎日百万遍の仏名を唱えて供養したことから遍萬寺という名前が付けられました。境内地には「懐良親王・菊池武光公 筑後川合戦の碑」が建てられ「筑後国府会川町枝光の宮本陣を出陣され下弓削警戒陣より(筑後川)渡河し、この地に懐良親王宮の本営をおかれる」と刻まれています。
住所:福岡県久留米市宮ノ陣5丁目 -
五万騎塚
筑後川の戦いでは激しい死闘が繰り返され、戦死者を収容する余裕もなく、多くの遺体が至る所に放置され雨風に曝されていたため、合戦の後、高良山明静院の僧が両軍の遺骨を集めて塚を造り供養したといいます。1367(正平22)年に供養塔が建立されました。
住所:福岡県久留米市宮ノ陣3丁目
筑後川の戦いの主戦場・小郡市
筑後川の戦いは主戦場となった小郡市の地名を冠し「大保原(おおほばる)、大原の合戦」とも呼ばれています。筑後川を境ににらみ合っていた両軍。南朝方の菊池武光が夜の闇で渡河に成功したのをきっかけに戦線は一気に北上し、10万の軍勢は大保原周辺で向かい合うこととなりました。
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善風塚(ぜんぷうづか)跡
小郡市大久保の大原小学校運動場の一角に、木々が密集した小さな丘があり、そこには合戦で亡くなった兵たちの墓の跡「善風塚跡」の解説が書かれた説明板があります。昔は市内には死者を弔う塚がいくつもあったといいます。両軍合わせて25,000人以上の死傷者を出したとされる筑後川の戦い。小学校側には両軍が協力して供養のために建立した「善風寺」があったといわれています。
住所:福岡県小郡市大保1492(大原小学校内) -
大原古戦場跡碑
小郡市役所に隣接する公園にある大保原古戦場跡碑の碑文は次の通り。「史上に名高い大原の合戦(南北朝時代)からちょうど650年を迎え改めて戦いに赴いた仆(たお)れた将兵の魂を鎮め国の安泰と平和を希求してやまない。この願と郷土の歴史を次の世代へ語り継ぐために有志あいつどいて茲(ここ)に碑を建立する。平成21年8月6日 小郡市長 平安正知」
住所:福岡県小郡市小郡249
福童の将軍藤【小郡市】
筑後川の戦いで深手を負った懐良親王が、大中臣(おおなかとみ)神社に傷の回復を祈願したところ、その加護で全快したことに感謝し、藤の木を奉納したといいます。胸高周囲2mで、地上1.7mから幹が分岐し高さ2mの棚の上に枝が広がり、その被覆面積約500平方mに及びます。樹勢は旺盛で、樹齢は約600年と推定されます。毎年見ごろの時期には、藤まつりが開催され、夜間はライトアップも行います。
住所:福岡県小郡市福童558(大中臣神社境内地)
戦い後の刀を洗った故事に由来・大刀洗町
筑後川の戦いの中、南朝方の大将である懐良親王は3カ所を切り付けられ、重傷を負いましたが菊池武光らの奮闘で南朝方が勝利しました。
戦いが終わり、血まみれの刀を小川で洗うと刃はこぼれ、川の水は真っ赤に染まったといいます。この故事から川は大刀洗川と名付けられ、大刀洗町の名の由来となりました。川沿いに建つ菊池武光の銅像が歴史を今に伝えてくれます。
住所:福岡県三井郡大刀洗町山隈159-5 大刀洗公園内
懐良親王の墓所
懐良親王の墓所については、1878(明治11)年に宮内省が認定した八代市悟真寺境内や、久留米の千光寺など数カ所の伝承地があります。また高良山を撤退後の親王は星野谷(現:八女市)に退き、その後星野氏代々の菩提所である大円寺に入って亡くなり、大明神山に観音堂を建てて祀ったとも伝えられています。
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懐良親王 宝篋印塔(ほうきょういんとう)
寺伝によれば、筑後川の戦いで深手を負った懐良親王は、1383(弘和3・永徳3)年に55歳で亡くなったとされており、耳納山谷山城で亡くなり、密かに千光寺に葬ったといわれています。懐良親王の墓塔と伝えられる宝篋印塔が境内にあります。
住所:福岡県久留米市山本町豊田 千光寺 -
懐良親王御墓所
大宰府陥落以降は北朝方に追われて八女に隠居していたともいわれ、八女市星野村も墓所の一つとされています。九州に派遣された折、幼い親王の補佐役として同行し、南朝のために生涯を捧げた「五條頼元(ごじょうよりもと)」という人物の末裔は今も福岡県八女市に暮らし、さまざまなゆかりの品を守り継いでいます。
住所:福岡県八女市星野村
史跡マップ
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<参考文献>
小郡市埋蔵文化財調査センター編「大原合戦展」(大原合戦660周年実行委員会)
「菊池一族歴史さんぽ」「菊池一族ことはじめ」(菊池市役所政策企画部菊池一族プロモーション室)
<協力>
古賀河川図書館