【日本遺産】古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~-1

【日本遺産】古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~


日本遺産「西の都」とは

「日本遺産(Japan Heritage)」とは、地域の歴史的魅力や特色を通じてわが国の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定したもので、現在日本全国で104件が登録されています。

福岡県内では、古代日本にとって大宰府政庁を中心とした地域が、東アジアからの文化、宗教、政治、人などが流入・集積するだけではなく、 外交、軍事の拠点でもありました。理想的な地の利を活かして軍事施設や都市機能が整備され、後に「西の都」と呼ばれました。1300年前、筑紫の地に誕生した「西の都」大宰府をめぐる交流の物語が、「古代日本の『西の都』~東アジアとの交流拠点」として、2015年、日本遺産に登録されました。


世界とつながり、外国使節を迎える「西の都」大宰府

1300年前には中国の唐王朝が繁栄しており、日本でも遣唐使を通じて唐の文物・文化・政治システムを進んで取り入れ、日本史上もっとも国際色豊かな時代といわれる奈良時代を迎えました。
筑紫にはすでに水城や大野城、基肄城(きいじょう)など百済の宮都を模した要塞が築かれていましたが、遣唐使・粟田真人(あわたのまひと)が収集した情報をもとに、約2km四方にわたって碁盤目の街区が整備され、大宰府を中心とするこの地は「西の都」として新たに生まれ変わりました。

また「西の都」では、外国使節を迎えて外交・交易も行われました。使節は最初に博多湾岸の筑紫館(鴻臚館)に入り、水城の西門に至り、さらに進んで大宰府の街並みを眺めつつ北上し、客館に入り滞在しました。そして、客館から朱雀大路を北上し、大宰府政庁へ向かいました。政庁では楽が流れ、日本・唐・新羅の最高級の食器が備えられた豪華な料理によるもてなしの饗宴が行われました。


筑紫に花開く文化

大宰府は人の交流拠点でもあったため、鑑真や空海、最澄などの知識人も滞在し、新しい文化が流入、集積していきました。
例えば、大宰府長官の大伴旅人邸で行われた「梅花宴」では、唐から持ち込まれたばかりの梅の花をめでつつ和歌を披露し合うという新しい文化が生まれ、万葉歌人たちは大野城や次田温泉(二日市温泉)などの風景に心を寄せて和歌を詠みました。


先進文化の集積

天智天皇が発願した観世音寺は、数多の交流により多くの文化・文物が集まった姿を今に伝えています。高さ5mを超える観世音菩薩像をはじめ、都や大陸文化の影響を受けた彫像が次々と造立され、外国使節を饗宴でもてなす場ともなりました。
鑑真は日本に漂着後、観世音寺に滞在し、正式な僧になるための授戒を日本で初めて行い、空海など入唐僧の長期滞在もありました。さらに、観世音寺の梵鐘は菅原道真が漢詩「不出門」で「観(世)音寺は只鐘聲を聴く」と詠んだ、日本現存最古の梵鐘です。


西の都のサブストーリーとモデルコース


Story1. “天神小路逍遥”~素顔の道真を訪ねて~

太宰府天満宮に祀られている菅原道真。
その歴史をひもとけば、晩年ひとり静かに想いを巡らせる姿と、死後、人びとの崇敬を集めて学問の神となった姿があります。
「西の都」の小路を訪ねれば、未だ知られていない“素顔の道真”に出会うことができます。


Story2. “こころの旅人”の原風景

大宰府の長官・大伴旅人は、「梅花の宴」を催すなど、「西の都」に華やかな万葉文化を開花させました。また、時には自らの切ない気持ちを歌に詠むひとりの歌人でした。
「西の都」を万葉歌で巡れば、旅人の心の原風景に出会うことができます。


Story3. “いにしえの要塞”

「西の都」成立以前の7世紀後半、東アジアの動乱の中、防衛の最前線となった筑紫には、山城や土塁などの防衛線を巡らせた巨大な要塞が出現しました。
“いにしえの要塞”を巡ると、激動の時代から豊かな交流の時代への移ろいを体感できます。


Story4. ”神功皇后伝承”を巡る

筑紫には、神功皇后ゆかりの地名や伝承が数多く残されています。伝承は今も多くの謎に包まれており、多くの人びとを惹きつけています。
エピソードを読み解きながら伝承地を巡れば、「西の都」の新たな一面を発見することができます。


Story5. 東アジア交流の原点

福岡平野とその周辺地域は、海路で朝鮮半島や中国大陸につながり、古くから東アジアとの交流を重ねて、国際色豊かな文化を育んできました。遥か昔に始まる国際交流の足跡を辿れば、国際都市「西の都」の原点を実感できます。
 


「西の都」関連スポット

  • 大宰府政庁跡

    大宰府政庁跡

    現在の太宰府市に置かれた「大宰府」は、7世紀後半から奈良・平安時代にかけて九州全体を治める役所の名前でした。その中心の政庁域だったのが「都府楼跡」として知られている場所です。地理的に日本の西を守る防衛の要であり、アジア大陸との交渉の窓口としても機能したことから、政治の中核として大宰府の中心地に政庁が建設されました。

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  • 大野城跡

    大野城跡

    宇美町・太宰府市・大野城市にまたがる四王寺山に所在する古代の山城。

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  • 水城跡

    水城跡

    東アジア諸国に対する国防と大宰府の関所という二つの機能を果たしていた「水城」。これは664年に、唐と新羅の攻撃に備えて、福岡平野が狭まるこの地に大野城や基肄城(きいじょう)と合わせて築かれました。

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  • 観世音寺

    観世音寺

    「源氏物語」にも登場する「観世音寺」の創建は7世紀後半。母・斉明(さいめい)天皇の追善のために、天智天皇の発願で建立された寺院です。九州における寺院の中心であり、周辺には49の子院があったといわれます。

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  • 戒壇院

    戒壇院

    奈良の東大寺、下野(栃木県)の薬師寺とともに、日本三戒壇の一つで、西戒壇と言われていた戒壇院。天平宝字5年(761年)、聖武天皇の勅願によって観世音寺に設置されました。

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  • 筑前国分寺跡

    筑前国分寺跡

    市の北西、四王寺山の麓にある筑前国分寺跡。奈良時代、聖武天皇は全国に国分寺、国分尼寺を建て、その中心として奈良の都に東大寺を建立、仏に守られた豊かな国をつくろうとしました。筑前国分寺もその一つで、現在は見事な磯石をもつ塔跡と講堂跡が発掘後整備されています。

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  • 国分瓦窯跡

    国分瓦窯跡

    都府楼、国分寺だけでなく観世音寺の瓦も焼いた窯。その瓦窯は日干煉瓦をアーチ式に築いた全長5mほどの地下式登窯で大宰府政庁西側の丘陵に幾つもつくられていました。現在ではこの一基だけが保存されています。

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  • 宝満山

    宝満山

    太宰府市と筑紫野市にまたがる別名竈門(かまど)山とも呼ばれる標高約829mの山。古くから神が降り立つ山として崇められてきました。

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  • 梵鐘

    梵鐘

    天智天皇の梵鐘は7世紀末の作で、現存する梵鐘では日本最古のもの。朱鳥13年(698年)に鋳造された妙心寺(京都)の鐘と兄弟鐘といわれています。

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  • 写真:太宰府市

    太宰府天満宮

    言わずと知れた学問の神様・菅原道真公を祀る太宰府天満宮。全国約12,000社の天満宮の総本宮と称えられ、九州最大級の規模を誇る神社には国内外から多くの人が祈願に訪れます。

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  • 基肄城跡

    基肄城跡

    「基肄(きい)城」は、日本と当時の朝鮮半島との間が緊張関係にあった時代、天智4年(665年)に大野城と併せて大宰府防衛のために築造された軍事施設です。

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  • 塔原塔跡

    塔原塔跡

    塔原(とうのはる)交差点の傍らには、塔の中心に立つ柱を支える礎石「心礎(しんそ)」が残っています。

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  • 天拝山

    天拝山

    大宰府に左遷された菅原道真が自らの無実を訴えるために、何度も登頂して天を拝したという伝記が名の由来とされる天拝山。中腹にある荒穂神社を通れば標高約257mの山頂までおよそ30~40分で到着、初心者でも気軽に楽しめる山として親しまれています。

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  • 杉塚廃寺

    杉塚廃寺

    「杉塚廃寺(すぎづかはいじ)」は、7世紀末から8世紀初頭頃に建立された寺院の跡です。

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  • 牛頸須恵器窯跡

    牛頸須恵器窯跡

    大野城市では、古墳時代から平安時代にかけてつくられた須恵器の窯跡が数多く発見されており、特に数が多い上大利(かみおおり)から牛頸地区にかけての一群は、「牛頸窯跡(うしくびかまあと)群」と呼ばれています。

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  • 御笠の森

    御笠の森

    県道飯塚大野城線(県道60号線)に面した山田地区にある森は、奈良時代の日本書紀(神功皇后の条)に登場する故事に由来して、「御笠(みかさ)の森」と呼ばれています。

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  • 善一田古墳群

    善一田古墳群

    「善一田(ぜんいちだ)古墳群」は、乙金山(おとがなやま)から西に派生する丘陵上にあり、総数30基ほどからなる群集墳です。

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  • 裂田溝

    裂田溝

    約1,300年以上前に作られた人工の用水路です。開削の記載もある『日本書紀』には、神功皇后が戦の勝利祈願のために神田を開き、その田に水を引くために掘った溝であるとされています。

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